当たり前を考える。人は必ず死ぬ。から、死について考えてみた。

ひき考(ひきこもりが考える)

「あなたにとって当たり前は、他の人にとっては価値のあることかもしれない」

という意見を、ちょこちょこ目にしています。

 

ブロガーのバイブルと呼ばれているブログ飯とかにも確か書かれてましたし、ツイッターで眺めるブロガーたちも、そんなことをツイートしていたような気がします。

 

なので、今回は自分にとっての当たり前を、飲酒しつつ語ります。

山無し落ち無し意味なしって感じだ。

 

僕にとっての当たり前とはなんだろう

しかし、なかなか当たり前は出てこない。

なぜかって言うと、当たり前だから。

 

呼吸と同じように、自分にとって「当たり前」になると、そもそもその存在や意識は限りなく薄れている。

瞑想でもしない限り、自分の呼吸に意識を向けることなんてそうそうない(あなたが呼吸を止めることを仕事にしていない限りは)。

同じように、自分の当たり前は「当たり前」が故に見つけることは困難を極める。

 

しばらーく考えた後にひらめいた僕にとっての当たり前は

「いずれ死ぬ」ということでした。

 

人はいずれ死ぬ

脳みそがハッピーセットなので、全然もう石仮面をかぶってWRYYと永遠の命を手に入れる予定ですが、まぁ、仮にそうなったとしても、残念ながら死なないというわけではありません(カーズ様は究極生命体なのであれは除く)。

 

んでまぁ、死ぬわけです。人は。

それは現象です。

貴方が夏に部屋の中の蚊をパンッと叩いて潰したように、人間も広い宇宙の、長い時の中で世界のてのひらの中で「パンッ」と叩かれたが如く、生命の終わりを迎えます。

それが死です。そんなもんです。

 

別に蚊じゃなくても、人間だってパンッと生命の終わりを迎えます。

 

概念的な死について

死は状態です。

生もまた状態と言えます。

生まれ、死ぬ、というのは状態の遷移です。

 

昔、1年で18250回のペースで死にたいと唱えていた時期があります。

1日50回くらい……いや、もっとか? まぁいいや。

今「生きている」ということは、別に、まぁそういうもんです。

ただ、存在がそういう状態であるというだけ。

どれだけ死にたいと唱えても生きている状態なら生きていますし、どれだけ生きたいと唱えていても、死ぬ状態なら死ぬだけです。

 

生きていることを奇跡と言う人も居ますが、考え方です。

それも間違っているとは言えませんが、生命体の基準は「死」で、長い「死」状態が、何らかのバグで一瞬「生」になったのが、人間含む生物です。

今生きていることが奇跡だとかなんとか言いますが、そこら中に人間はあふれかえっていますし、生命体が地球をこれでもかと言うほど埋め尽くしていますし、宇宙にある星たちもまた生命と考えれば、言葉通り「星の数ほど」生命体は存在します。

それを奇跡というのならば、なんだって奇跡じゃない?

 

話がそれましたが、人はいずれ死にますし、もしかしたら次の瞬間には自分が死んでいるかもしれませんが、それはただの状態の遷移ってことです。

起きている状態から、睡眠状態になるように。

満腹状態から、空腹状態になるように。

仕事状態から、ゲーム状態になるように(?)。

そのくらいの物です。

 

生きるも死ぬも、まぁ、あんまりたいしたことではないです。

勿論それは自分の話です。

貴方が他人の死に哀しみを覚えるのであれば、それは優しい心の持ち主です。かけがえのない人間の温かさを持つ優しい人類なので、そのやさしさはずっと持っておいてください。

 

 

まとめ

人は死ぬ、という当たり前のことについて、自分なりの考えを喋ってみました。

どうでしょうか、と言われてもまぁどうもこうもないとは思いますが、昔の僕が読んだらほんの少しだけ救われるような内容を書いたつもりです。

 

なんか「死ぬのはダメ!」っていう洗脳で逆に苦しむというか。

別に「ただの状態の遷移だから、大げさにとらえるもんでもない」って思えたら、それで救われることもあるんじゃないかな、と思います。

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