クソゲーをクソゲーと言っちゃだめなの? ゲームは批判すべきである

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ひき考(ひきこもりが考える)

最近、「批判は良くない」論を見かけます。

確かにクソゲーの評価を見るや否やそれに群がり「クソゲーコンテンツ」として消費するクソゲーハイエナは僕もクソだと思います。

でも、純粋にクソだと思った気持ちを、個人として発信することはむしろガンガンすべきです。

 

今回は「批判は良くない論」を様々な所で見かけ、特に「ぐう実況」さんの「ゲーム好きならやってはいけないこと3選(下記動画)」を見て、「いやこれは発信者としては良くない」と思ったので筆をとりました。

 

 

本題に入る前に、「ぐう実況」さんの活動は本当に素晴らしい事だと思っていることをお話しておきます。

客観的な解説やレビュー、幅広いゲームプレイから導き出されるプレイすべきゲームの紹介、的確な批判(難点の解説)など、まさに理想的なレビュアーであることは間違いありません。

 

ただ「全ゲーマーに聞いて欲しい! ゲーム好きならやってはいけないこと3選」という動画……上で貼った動画ですが、これにかんしては内容に非常に違和感を感じました。

 

ちなみに筆者はゲームをプレイする人類です。

「ゲーム好き」かと聞かれると約100本好きなゲームがあるのですが、それ以上に「好きとは言い切れないゲーム」「積んでるゲーム」が山のようにあるのでゲーム好きかはわかりません。

(いいカm……お客様?)

 

好きかわかんないけど、やっぱりしゅき♡(歪んだ愛情)

 

それではゲーム批判について語ります。

 

ゲームの批判だけをしても良い

動画で「ゲームの批判”しか”しない」ということがNGとありました。

 

しかし、「批」(ただ「クソゲー」と言うだけ)はよくないですが、「批」(根拠を提示した上で「クソゲー」と発言)はするべきだと思います。別に無理に良いところを捻りだす必要は消費者には存在しないです。

 

例えば僕で言うと、デス・ストランディングがめちゃくちゃ嫌いだったんですが、その内容を客観的数値を使いつつ「批判」しました。

参考:デス・ストランディングはクソゲーというかゲームですらない【感想】

 

ゲームの良い部分も素直に評価できないで何がゲーム文化の向上になるのか?

動画内で「ゲーム文化の向上」という非常にあいまいな概念が出ているので、個人的なその言葉の意味を想像し書いておきます。

僕は「ユーザー(消費者)が楽しいと感じるゲームの増加」がゲーム文化の向上だと思います。

 

で、そのために必要なのは新規ユーザーの取り込みと彼らが継続してお金を払う事です。

じゃあそのために必要なことは? 最初にプレイしたゲームに面白さを感じ、感動することです

 

これでもまだかなりガバガバですが、いくつかの要素を上げていけばここに近づけるような気がします。

例えばその中の要素をひとつ上げるなら「『大作・名作のように見えるが人を選ぶゲーム』を掴ませない事」が重要であると考えます。

その判断を未プレイの新規に伝えるため、批判は重要です。

悪いところ”だけ”だとしてもしっかり殴っておくことで、そのゲームをきっかけにゲームから離れる人を減らす事ができます。

 

例えば僕はデス・ストランディングの最初の105分に対し84分がムービーだから、ゲームをプレイしたいなら買うなとレビューを書きました

「こんだけムービーがながいならもうゲームじゃなくていいじゃん。ゲームをプレイさせてほしい」と言う批判ですね。

 

なぜこれを書いたかと言うと、「なんか面白いゲームをプレイしたいなぁ」と思っていたゲームをプレイできないゲームをつかまされた初心者の事を考えたからです。(憂さ晴らしが0かと言うと決してそんなことはないですてへぺろ)

 

当たり前ですが、ゲームをプレイするのは、ゲームをプレイするためです。

決してムービーを延々と見せられることがゲームをプレイすることにはならない。

それなら映画を見りゃいいんですよ。ゲームでやってるのは詐欺です。「コーヒー」って書いてあるコーナーの缶を買ったら中身がコーンポタージュだったみたいな感じです。

2倍速で映画を見るほどに時間がないのが現代人です。

考え方を変えるなら「少なくとも1時間以内にはゲームの面白さを体験できないならゲームとして存在する価値がない」ということです。(個人的な欲を言えばスタートボタンを押した1分以内に操作できるゲームこそが素晴らしいゲームの第一歩だと思ってます)

 

だってそうじゃないと、「ゲームをプレイした価値」が無いじゃないですか。

ゲーム入門者からすれば

「こんなのが流行ってるのか」

「こんなのがゲームならもういいかな」

になります。

 

だから僕は批判します。

ゲーマーが好むものを持ち上げるよりも、非ゲーマーに良いゲームを掴んでもらうアプローチをする(≒楽しめないゲームを避ける)ほうが「ゲーム文化の向上」に寄与すると思うから。

その逆のゲームが「大作で大ウケしてるっぽい雰囲気」を出していたら、それは初心者にとってワナだと思うんですよね。

 

批判は生産的ではないという意見は非常によくわかります。

でも、限られた時間、限られたお金を払うべきゲームなのかどうかを読んでる人に判断させるための批判は、あるべきです。

 

「ゲーマーがすべきでない事」というくくりは、逆に良くないんじゃないかと思ったわけですね。

「批判のみ」という行動は、良いところも悪いところも取り合げるぐうさんのような公平な「レビュアー」としては良くないと思います。(とは言え論理の整合性を担保するために「いいところ」を上げてしまうとそこに隠れた「悪いところ」が上げづらくなるというレビュアーのジレンマはあると思いますが)

 

でも「ゲーマー」としては好きに批判しても良いと思いますし、それを否定することはやっちゃいけない事だと思ってます。表現を禁止する権利は誰にもないですし、非ゲーマーに相応しくない物を掴ませないようにするためです。

批判だけのレビューもゲーム文化の向上の一端を担うというわけです。

 

ゲームの値段は高ければ高いと言うべき

動画に「ゲームの値段に文句を言う」のはやってはいけないとありました。

 

これに関してもゲームの値段には文句をガンガン言うべきだと個人的に思っています。

レビューって根本的に「消費者が参考にしやすい意見を言うこと 
= 買うかどうかの判断の一端を担う」という役割があります

 

僕はゲーム業界に対し、遊んでいて楽しいゲームを末永く出して欲しいので、非ゲーマーをゲーマーにすることこそが重要だと思ってます。

僕含むゲーマーはゲーマーではない人に比べるとゲームにかけるお金も時間も多いでしょう。

だからこそそれを基準に考えることは非ゲーマーのためにならない。

 

動画内に

ニッチな需要に応えたゲームは市場が非常に狭いので、例え海外のゲームとかと比べて開発費が少なかったとしても1人あたりのユーザーから貰う金額は大きくなってしまう

とありました。

 

でも普通の消費者としては

とも
とも

ぶっちゃけ開発側の都合とかマジで知らねえ!!!!

じゃないですか?

 

例えば「野菜が値上がりしました」とか言われたら「はぁ~、糞だな~」って感想が浮かびません?

「農家さんもたいへんなんだから仕方ないね」とか、「野菜一個作るコストは今年猛暑で温度を下げるために日よけを設置してるから~~~消費者のもとに来るまで高くなっても仕方ない」とか、消費者がそこまで意識する必要あります?

「高いと思ったなら高いと言う」

文句を言うのは自由だし、ガンガン文句をいっていくべきだと思います。(でも、生産者が価格を決めるのは自由だから、そういう乞食に妥協する必要もないと思う)

 

いや、論理としては正しいんですよ。

仮に3万円回収しないと元が取れないとします。

100人に300円でゲームを売るか、300人に100円でゲームを売るか。

そういった2択しかない。

大手は後者でいいですが、小さなメーカーだと狭く深くで前者を狙い撃ちするしかない。

でも、一般的なゲーム(大手が作るゲーム)が仮に100円だとしたら、300円のゲームは高いって意見は当然じゃないですか?

じゃあ1万円で回収出来るゲーム、100人に100円で売れば元が取れるゲームを作るってのは当然の論理かと思うんですけどねぇ。

そこで信用を作ればいずれ300人に100円で売れるゲームでもなんなら300円で300人に売りたいゲームも受け入れられるはずですし。

 

「リソースはないけどクオリティはあげたい! だからお金頂戴!」って、それはもう消費者関係なく作り手のワガママでしょ。

 

とも
とも

開発コスト下げればよくないっすかね……

 

非効率的な開発費(消費者からすると関係ないこだわり)をユーザーに負担してもらうゲームが殴られないと思ってるんですかね?

 

例えばスマブラとかでも、リトルマックのステージ(特設リング)の観客の適当さとか見たことありますか?

あれ例えば凝ろうと思えばもっともっと観客をリアルに書き込んだり、色々出来るんですよ。クオリティをアップするために。

でもそれをしていない。

それは開発コストを下げる為です。ひいてはユーザーに「安く楽しんでもらいたい」ということに繋がってくるわけです。

それが商品を開発する時に考える、当たり前の事だと思うんですよね。

 

それはそれとしてスマブラのボリュームは実質ダンピング並みなので、あれと比較すると全てのゲームは無料並で提供しなきゃ成り立たんわけなので別ゲーを上げておきますが……

最近プレイしてコスト下げを感じたのは「サガ スカーレット グレイス 緋色の野望」です。

サガ・スカーレットグレイス緋色の野望の感想。どんな人にオススメ?」という紹介記事も書きましたがめちゃくちゃ欠点の多いゲームです。マップは平面、会話は紙芝居、ダンジョンもない。グラもPS2レベルで、ストーリーも中途半端。

一見クソゲーと批判するには十分な材料が揃っているわけです。

 

でも、ゲーム部分と音楽がしんじられないくらい素晴らしいんですよ。だって僕はゲームをプレイしたいわけだし、しかもおまけに素晴らしい音楽でテンションを上げてくれれば、100点だから。

 

じゃあマップを3Dにして、会話をムービーにして、ダンジョンを作り込んで、グラフィックをリアルにして、ストーリーをしっかり完結させる。それで価格は10000円です! とか言われたら僕は「いや、そこ削っていいから安くしろよ」と思います。

開発側もそれを理解しているから、コスト削減できるところは全力でコスト削減してるんです。そのかわり面白さの凝縮された結晶を絞り出す。

それがゲームをプレイしたい人にとっての唯一にして最大の要求じゃないですか?

 

消費者は作り手の都合なんか知りません

普段買ってるジュースが10円高くなったら「チッ!」って思いませんか? 「製造ラインの高コスト化がぁ~」とか「原材料の高騰がぁ~」とか言われても「は? しらねぇ~」じゃないですか?

 

なんでそれがいきなりゲームになると良くない事って言われるんでしょうか。

 

「知るべき」という意見はわからないでもないですが「知った上でこっちは必要ないと思ってるものに金を払わせる開発」には腹を立てていいと思います。

高いなら高いというべきです。

 

ファイナルファンタジー7リメイクの商法について

FF7リメイク(FF7R)の話も合ったので、僕はマジでこれに怒りを覚えていることを伝えておきます。

 

例えば映画で話します。

「『千と千尋の神隠し』のリメイク」が出たとします。

で蓋を開けてみたら「オリジナルシーンを少し増やしました!」「オリジナルシーンを増やしたから本編は名前が「千」になるところまでです!」

とか言われたら「なんでやねーんwwww」ってならん? そうなるのは自然だと思うんですが。

仮に「書き込みが増えた」とか「声優が豪華になった」とか「オリジナルシーンが増えた」とか、様々な特典があったとしてもです。

 

別にそれを求めていない人もいるんですよ。

もともと一つの作品の「リメイク」という名前で売られている商品だとしたら、「別に余計な追加要素とか要らんから最後まで見せろよ!」ってのは至極普通の意見だと思います。

というかそれが普通じゃないですか。今まで「リメイク」ってついたもので、いきなり複数本になるものが一体どれだけあったというのか?

 

とも
とも

なぜそれを怒ってはならないのか

 

タイトルと売り方がマジでクソだと思います。「いや、前から分作って言われてるから」というなら、「FF7R-ミッドガル脱出編」とか「FF7R part1/3」とか、そういう名前にするのが消費者にとって誠実じゃないですか?

 

これマジで「ゲーム業界がこんな詐欺まがいの商法をするところだったなんて……」と思われるからやめろって本気で思ってます。

 

動画内にもありましたが、否定意見として「〇〇時間遊べる」とか「このクオリティでこの値段なら一般的なゲームに負けてない」ってのがありますが、そういう話じゃないんですよ。

  • 「ファイナルファンタジー7」という一本の完成したゲームをリメイクしたなら1本のゲームで終わらせる

これが受け手に取って当たり前の事なんですよ。

 

しかも最初から「分作です」と言いながら、なんパートのものか言ってない。極論、例えばこれがpart10とか20とかになるかもしれない。

 

これに文句を言う事こそが、真に文化が発展すること。初めてその文化に入る人に優しいことだと思うんです。

ゲームデザイナーさんの技術はゲーム会社の財産だが、プレイヤーにとってもかけがえのない財産だから、彼らに正当な報酬を払う、投資を行う感覚を持つことが大事

という内容がありましたが、「正当な報酬を払う」ことは正しいと思いますがそれと「投資を行う感覚を持つ」ということが同列で語られているのがおかしいとおもいます。

 

特に「投資」という言葉を使うなら、株主総会で経営者をぶん殴る(比喩)ことは当然あるでしょ。

 

メーカーがどうのとか、作り手がどうのとか、マジで関係なくないですか?

「面白いゲームを満足いくまでプレイできること。終わった時『最高のゲームだった!』と終われること」これがユーザー(消費者)にとって全て。開発者の都合や思想なんか関係ない。

 

消費者はワガママであるべきなんですよ。むしろわがままだからこそ消費者と言っても良い。

そしてわがままな顧客を満足させるために、さらに素晴らしいゲームが作られる。

それが正常なサイクルです。

 

開発に関わってるのは人間とか言うけど、買うのも生活のある人間なんです。

ゲーマーだろうが非ゲーマーだろうが、値段と内容に文句を言うことは至極当然です。

そしてそれを否定されるいわれはありません。

 

「作った人達の悪口は言わなくていい」は、その通り。

「ゲーム好きならやってはいけないこと」の3つめ「作った人達の悪口を言う」は確かにと思います。

僕も開発者の悪口を言う必要はないと思います。

 

ただ、作った人が変わればゲームが評価されるパターンもあるんですよね。

ファイアーエムブレムとかそうじゃないですか。

プロデューサーが変わり、根深く残っていたプロデューサーの拘りを捨て、新しいものを取り入れ一躍人気になったのが「FE覚醒」です。

そういった例もあるから、頑なに作り手に言及しないことはどうなのかな? という気持ちもありますが、ただそれはヒト批判ではなく商品批判で十分です。「ゲーム内容の批判」がそれに繋がると思います。

 

だから、開発者の悪口を言う必要はないかもしれませんが、開発者の悪口を言うことで未来の良いゲームに繋がる可能性は否定できません。

ただ、現状だと開発者への悪口は言わずともゲーム批判したほうがいいかなというスタンスです。

 

繰り返しになりますが、作った人の悪口は言わなくても、作品の批判はガンッガンにするべきというのは心から思っています。

っていうか文句を言わず盲目的に褒める事って、むしろ作ってる人に失礼じゃない?

 

とも
とも

良い面・悪い面、全力でぶつかり感じ取ることがゲーマーの礼儀では?

そして発信者としてであるならば、悪い面も真剣に発信することがむしろ誠実だと思います。

動画で

「(開発者に対して悪口を言うなの項目で、クソゲーを作った開発者に対し)どんまい、どんまい、次は良いゲーム作って下さいね」

って言葉が出るの、僕は「さすがに余裕がありすぎでゲームに対して冷めてる」とすら感じました。

普通ゲームが好きだからゲームレビュアーになるわけですが、それだからこそ盲目になりがちだと感じます。

 

ちなみに余談になりますが「日本のゲームはオワコン化してる」とか言う人はゲーマーではなくてただの妄想癖がある文句を言いたいだけマンなので、構う必要はないと思います。

 

僕のゲーム(作品)に対する考え方

ゲームに限らず、すべての作品に対して思っていることなんですが

  • 「わかるひとがわかる」だけのものになってくると、その文化は衰退していく
  • 自由に発言、発信できない土壌は腐る
  • 最初に受け取ったもの印象で、ジャンルへの見方が決まる

ってのは、マジであると思います。

 

で、そもそも僕がゲームをプレイする理由は、自分にとって、面白い、完璧なゲームを体験するためです。

 

もっと言うなら世に存在するすべての商品は「自分にとって完璧なものを体験するため」に存在すると思ってます。

レビューを読まないってことは、例えるなら消費行動そのものが内容量無限のガチャを引くってことになります。当たるわけない。

とは言えソシャゲ同様「究極キャラクター = 最高のゲーム」を引けるなら……結果的にゲームが2万円でも3万円でも、それに見合う価値を提供できてるならそれでいいんです。

 

でもそれはゲーマー目線であり、一般消費者目線ではないんです。

ゲームはゲーム以前に「パッケージングされた商品」なんですよ。

それに見合う体験を得られなかった消費者は離れて行く」ということは当然です。

 

ぶっちゃけゲーマーというのは良くも悪くもおかしいんですよ。

つまんなかったゲームをプレイしても「どんまいどんまい次、次w」とか言えるのは、ゲーマーだけ

 

普通の消費者は「面白い」と言われている面白くない物をつかまされたらそれで「あっ、ゲームってこういうもんなんだ」で終わる

 

ゲーマーの皆さんもゲーム以外ならきっとそうじゃないですか?

例えばですけど最初に「癖があるけど美味しい!」なんてレビューを元に食べた羊肉が口に合わなかったら「羊肉はもう食わん」って思いませんか?

そうならないために、癖のない美味しいジンギスカンのお店をおすすめする。

それが好きな人を増やすために大事なんですよ。

 

ゲームだってそれと一緒です。

癖の強い「普通なら面白いとは言いづらいゲーム」から、なんとか面白いところを見つけて「これは決してクソゲーではないよ、面白いところもあるよ」という批評は一体だれのためのものなんだ? と思います。

クソなものをクソとぶん殴る事が、文化の発展を支える方法のひとつなんじゃないでしょうか。(まぁもちろん言い方はありますが)

 

レビューは批判ありき

「非難」は参考になりませんが、「批判」は参考になります。

理由ありきの否定ですね。

 

「参考になるレビューか」と「平等で公平なレビューか」は似ているようで全く違うんですよ。

で、上でも書いた通り「平等で公平なレビュー」がいつでも初心者にとって良いものになるかというと、決してならないわけです。

 

平等で公平なレビューと言うと、結局敵を作らない無難な着地になるのですなわちそれは読んでいる人の購入(あるいは見送り)の判断にならないなんの意味もないものです。

 

そしてそのために「批判」は最重要なんですよ。

本当に「批判」が叩かれがち(まぁ「非難」が多すぎるところから触発されてる感はありますが)で、ネットで発信する人も批判から逃げがちです。

でもなんでもかんでも良いところを無理やり見出して「だからこれは良い物です!」という評価は、”二度と羊肉を食わない人類”を増やしてしまう可能性があるんです。

 

だから、クソゲーと感じたならクソゲーと叩くことが重要なんです。

批判ってマジで購入の後押しになるんですよ。「その程度のクソ要素なら買おう」ってこと、ありませんか? ゲームに限らず、なんでもそうですが。

「ここが良かったよ!」は興味の一歩目ですが、買うかどうかに関しては「批判を読んで」決めません? 僕だけ?

逆にそこにふれず批判をなあなあにしたレビューは害悪だとすら思うわけです。そしてそれを生み出す「批判は良くない論」に対しても。

 

まとめ ゲームは批判しよう。クソゲーと感じたならクソゲーと声を上げよう

というわけで長々語りましたが、最近何度か目に付いた「批判は良くない論」に対する自論でした。

 

どんな形であれ発信を制限する思想は、人間の活動を馬鹿にする非常に良くないことだと思っています。

 

まぁゲーム文化の向上やらなんやら言いましたが、僕は「ゲームに対する個人の感想」を読むのが好きってのもあります。良い物も、悪い物も。

だから「批判は良くないものなんだな」と委縮してしまう人が減る事も望んでいます。

 

批判をするなというのは不健全です。

 

とも
とも

清濁併せた意見の発信と自由こそが美しいものであり、それを見たいんだ

 

……ちょっとクサい言い方になってしまったけど、そんな自分に気付きました。

 

関連テーマとしてゲームの消費方法であったりとか、色々話したいことはまだありますが、いずれ気が向いたら別記事で語りたいと思います。

 

何か思うところがあれば、コメント、シェア、お気軽にしてくださいな!

 

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