「給食のカレーやめます」問題について。いじめにどう対処すべきか。

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ひき考(ひきこもりが考える)

 

元のニュースは、上のツイートの中にもありますが、小学校教員が、別の小学校教員をいじめた(暴行)というニュースです。

ソルベのように輪切りにすべき案件ですが、それは置いといて。

 

「給食のカレーやめます」について

「カレーを無理やり食わせる動画を見たこどもに配慮し、カレーをやめます」

「動画に写っている家庭科室はこどもに配慮し、改修します」

 

これだけ虚無を抱えた改善策を思い浮かぶことが、個人的にはびっくりです。

 

これって、いじめの方に考えを向けて、同じようにすると

「加害者の声が耳に残っている人に配慮し、加害者にヘリウムガスを吸わせて、声を変えます」

「加害者の顔が脳裏に残っている人に配慮し、白塗りの化粧を施すようにしました!」

とか言われても「やったぜ!」とはならんでしょ。

根本的な解決に目を向けず、その場しのぎの解決策しかとらなければ、ヘリウムガスを吸わせて白塗りをした犯罪者に、人は殺され続けるんですよね。

 

 

いじめ問題について

よく「悪いのは加害者」と言います。

まぁ、それは正しいんだけどもさ。

 

「被害者はありのままでいい」

ってのは正しいとは思えないんだよね。

僕も昔クソみたいなパワハラを受けた上での話です。

 

似たような「いじめ」関連のツイートに対して、僕が思ったことです。

 

僕のツイートの引用元の引用元のツイート(ややこし)の話をまとめると

  • 会社は居るだけで給料を貰えるが、居るだけだといじめられる
  • いじめるやつは「悪いことをしている」と考えない。
  • だから「会社にいるだけで給料もらえる」という発想は危険

というような話ですね。

 

つまり、「攻撃している人」を殺し続けても、「攻撃している意識のない人」はどこにでもいるわけで、結局被害者側が変わらないと、どこにいても組織に属する限り攻撃されるんですよね。

何度も言いますが、被害者が悪いとかそういう話をしているんじゃないですよ。

仕組みの話です。

 

被害者がどこかで変わらなければ、人からの攻撃はどこにでもあるんだから、かならずどこかでまた同じ目に合う。

そういうものなんですよ。

 

その現実から目を逸らし、理想(想像)に依存し、「いじめている人を殺し続けたら世界は善くなるから、いじめられている人は変わらなくてもいい!」って言ってたら、その世界が実現するころには人類が滅亡しています

 

んじゃいじめられてる人はどうすればいいんよだよ、って話はあとでします。

 

 

被害者は悪くないが、変わらなければ、変わらない

んで、カレーの問題も、いじめの問題も、どちらも「受け取る側が変わらなければ起き続ける問題」なんですよね。

人間による加害は起きうるもの、として立ち回らなければならないんです。

 

まず今回の問題として

本来解決を図る部署が「カレーをやめる」とかいうクソ対応をカマしたのがめちゃくちゃ大きいです。

かなりシンプルに「あっ、頼りにならない」ってわかりますよね。

それに対し「頼れるところでなければならない」という考えは無意味でしょう。

先ほども書いた「理想への依存」です。もちろん将来的にそうあるべきという理想を掲げるのは悪くないですし、それに対する行動は価値があると思いますが、その理想に依存するのは悪手です。

 

じゃあ現実的にどうしなければならないか?

それを考え行動しつづけなければなりません。

 

何度も書きますが誰かが善い、悪い、って話をしてるわけじゃないですよ。

現象として起こり得ることに、対策しなければならないんです。

 

台風が来て被害があった! に対して

  • 災害対策部署が悪い!
  • こんなところに国を作ったのが悪い!
  • そんな世界を作った神が悪い!

とか言い続けても、全く意味がないわけですよ。「いじめ加害者が悪い!」とか「対応がクソな部署が悪い!」とか、本質的にこれと同じ次元です。

台風に対してで言うと

  • 地下神殿を作り水を逃がす場所を作る
  • ダムを造り水を貯める場所を作る

こういった「現象に対する対策と行動」にしか意味がないんですよ。

 

じゃあいじめに対してで言うと……

 

いじめ被害者はどうすべきか?

ここはもう十人十色って感じですが、パワハラを受けた経験から考えると

  • まずは現実を受け入れる

こいつは他人に害を為すんだな、という現実を受け入れ、そしてその害の対象になっている自分、という現実も受け入れる。

ここに「人は他人に害を為すべきではない」という理想への依存や、「自分が被害を受けているのはおかしい」という理想への依存は無意味です。

白馬の王子は、居ない。

 

その上で

  • のらりくらり「アッソッスネ」と喋りやり過ごす
  • 他の場所に移動する

のどちらかが対処法になります。

 

物理的に殴られたり(それこそ激辛カレーを押し付けられたり)するような場所では、のらりくらりはやめたほうが良いかもしれませんが、まぁそこそこ言葉だけのパワハラの場合は、のらりくらりしても生命の危機はないので、会社に寄生してるほうが美味しい気もします。

 

まぁ「お前の代わりなんぞいくらでもいる」ように、僕たちも「お前の代わりなんぞいくらでもある」の精神は常に持ったほうがいいです。

宿主が攻撃するなら寄生する意味ないですからね。ほかの宿主を探すだけよ。

 

あるいは

  • なんらかの力をつけて、それを使い生きる

か、です。

 

結果的に、僕は他の場所に移動することを良しとしませんでした。

上でも書いた通り、自分の無能っぷりは、どこででも殴られる可能性が高いと判断しているからです。

 

僕が今書いているブログも「なんらかの力をつけて生きる」の一環(になってればいいな)ですし、パワハラにあっている現実を見つめ

  • 「自分はそういう存在だ」
  • 「しかし他者に侵略されるいわれもない」
  • 「だから『アッ、ソッスネ』力を鍛えて金を貰いつつ、力をつけなければ」

と考えた結果、生み出されたという側面を持ちます。

 

ちなみに結果的に僕は2年程度耐えましたが、そいつは別の場所に移動しました。2年の間、のらりくらり力は上がったと実感しています。

 

大きく自分語りをしてしまいましたが、再度結論をお話しておくと

  • のらりくらり力を鍛える(不真面目に生きる力)
  • 他の場所に移動する
  • 力をつけ、それを使う

この3点が、いじめにたいする対処法になります。

 

子供の場合、移動が難しいのがしんどいところですよね……。

DaiGo氏は「ナタを投げつけたらいじめが止まった」というエピソードもありますが、本質的には「他人が変わるという理想を捨てて、自分が変わるしかない」という話です。

 

 

まとめ 自分の身は自分で守るしかない

身も蓋もない結論ですが、自分の身は自分で守るしかないです。

理想はあくまで理想です。

 

「守る力が無いんだ……」ってのもわかりますので、もう少し言い方を変えておくと「自分が変わるしかない」ってことです。

他責では問題は解決せず。解決しても一時しのぎで、根本解決にはならない。

 

「カレーやめます」を頼っても、なんの意味もありませんね。

 

余談ですが、今ツイッターでは「#カレーに罪はない」ってハッシュタグがありますが、結局多くの人は本当にこの問題の事を考えておらず、騒げる種を見つけて騒ぎたいだけです。

 

僕も言ってしまうと、この話題はブログのネタ以外の意味はないです。内容は本気で書いてるけどね。いじめられた人にとって僕は何物でもありませんし。

 

なので、まぁ、自分の人生は自分で向き合うしかないってことですね。

変わらなければ、変わらない。

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