「レベルデザイン」という言葉がある。
ざっくり言うと、ゲームの要素を、納得感のある配置に納めることだ。
僕はUndertaleにおいてもっとも素晴らしいところは、プレイヤーへの心理誘導だと思っている。
そのことをUndertale風に、ケツイのデザイン。
略してケツインと呼ぼう。
……やっぱりせめてケツデザにしとこう。
んで! そのケツデザの! すばらしさを! 今日は! 語る! よ!
ネタバレ注意。
未プレイは、1秒でも早くUndertaleをプレイしてからな。
——以下Undertaleのネタバレ——-
N→P→Gのケツデザ。
初見でプレイしたものとして。
Nルートは、誰もが通るルートだ。
そして、多くの人がトリエルを殺す。
「優しくしてくれた人を、倒してしまった」
その自責の念から、Pルートを目指すだろう。
ここにまずUndertaleのケツデザの秀逸さがある。
別ルートを目指す作業……
「強くてニューゲーム」「2周目」「周回」
他のRPGであれば、いろいろな呼び方があるだろう。
しかし、「ケツイを抱いた」あなたは、「2周目」を目指すのではなく、間違いなくすべてのモンスターを救おうとする「ケツイ」を抱いている。
そしてPルートは、非常に感動的だ。
道中はLVが上がらないため体力が少なく少ししんどいし、攻撃できないから敵の行動をすべてよけきらなければならないし、ラスボスは、少し強い。
Nルートよりもしんどい道を歩いてでも、すべてのモンスターを救おうとする。
「あなたはすべてのモンスターを救うケツイを抱いた」
Undertaleの秀逸なケツデザはここにも表れる。
N→Pクリアだけで、普通のRPGとしても100点満点近い。
そこまでは、わかる。
しかし、そのあと、もう一度プレイしようとすると「この世界を壊すのか?」とフラウィーに問われる。
それを乗り越えるケツイをした人が、Gルートに進める。
残酷なゲーマーの性を背負って。
Gルートのケツデザ。
Gルートは、すべてのモンスターを虐殺するルートだ。
全てのモンスターを生かすルートと対極に位置する。
Pルートでのあなたのケツイはどうだっただろうか?
「誰も傷つけてはならない」。「だれも殺さずクリアしたい」。
そういったものだったはずだ。
それが、Gルートを目指すとケツイした。
あのクソ花フラウィーに「幸せを壊さないで」と言われても。
ちょっとだけ心優しい人であれば、Gルートで雑魚を倒す時に
「ごめんね」
という念が生まれることもあるだろう。
しかし、その「ごめんね」から「早くエンカウントしないかな」、「早く敵を全部倒せないかなあ」に切り替わるのは、そう遅くないだろう。
Gルートで残雑魚をカウントダウンするのは、ゲーム的な側面(残り数が分からないと進んでいいかわからない)もさることながら、プレイヤーが優しい感情を持って接していた相手から、数値を減らす程度の意識しか持たせないという意味を与える。
そう思わせるケツデザは、本当に素晴らしい。
そして、Gルートの節目であるパピルス戦。
パピルスは、Gルートの戦闘まで、兎に角こちらを信じていた。
アンダイン曰く、パピルスは「笑顔のまま殺されるのがオチ」だそうだ。
その言葉は、現実のものとなる。
パピルスを倒すのが苦しい。
そう思ってそこでやめるのも「ケツイ」だ。
そして、パピルスが笑顔のまま殺すのが、あなたの「ケツイ」だ。
Sans戦前後のケツデザ。
Sans戦はPルートをプレイしていた時までと、あなたのケツイは全く異なる。
「絶対に全員と生きる」というケツイから、「絶対に全員を殺す」というケツイ。
そう思ってしまっているのが、まさにケツデザの掌の上だ。
そして、そのケツイを高めるのが、Sans戦の難易度だ。
そして、もうやめないか? からの確定死亡攻撃だ。
ほんの少しの反省を心に抱くのと、ゲーマーの好奇心を最高に刺激するシチュエーションだ。
そしてそんなことをしたら
「絶対にコイツを倒してやる」
というケツイがみなぎることは、もはや言うまでもない。
まさにケツデザの真骨頂。
心に深く残るゲームなのは、心をなぞるから。
基本的に感情移入のできないゲームの物語は、名作足りえない。
Undertale感情移入ができる……せざるを得ないデザインになっている。
優秀なレベルデザインのゲームは、言葉がなくとも自然と進めるようになっている。
Undertaleはゲーム全体で自然と「そう感じるよう」に作られている。それがUndertaleのケツデザの秀逸さだ。
そういう風に作られたストーリーであり、それがメタ的な作品だからこそできるすばらしさだ。
普通のゲームなら、どこまで行っても「違う世界のだれかの物語」であり、そこに「自分」は存在しない。
勿論その上で「名作」は存在する。僕の好きなゲームで言うと、逆転裁判なんかは筆頭だ。
Undertaleの「ケツイ」はほかならぬプレイヤー、画面の前のあなたの「決意」であり、その決意がゲームの結果を左右する。
だからこそ、みんなの名作になった。
ケツデザの秀逸さがなければ、ここまでの愛される名作にはならなかっただろう。単体のNルート、Pルート、Gルートでも十分素晴らしい作品だが、ケツデザがあったからこそ何十倍にも魅力的な作品になった。
そして、そこにたどり着くのがゲーマーの性だよな。
気になる所には、すべてを破壊してでも辿りつかなければならない探求心。
困ったちゃんやね。
(記事の終わり方クソ下手侍)
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