Detroit: Become Human ネタバレあり感想。途中で止めた理由

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ゲーム

どうも、ひきこもりたいともです。

 

Detroit: Become Human(以下デトロイト)を以前プレイしていたので、ネタバレありで感想を語っていきます。

 

結果から言うと、27話でやめてしまいました。

 

僕は非常に飽き性なのでプレイ30分でゲームをやめる事は日常茶飯事です。

でもデトロイトは全31話まであと少しというところでやめました。

 

普通そこまでプレイしたゲームって勿体ない根性もありなんとかクリアまでたどり着けるんですが、デトロイトはダメでした。

 

その理由と感想をネタバレありで書いていきます。

 

デトロイトを途中で止めてしまった理由

なぜデトロイトを途中でやめてしまったのか。

物語に入り込めなかった?

いや、逆に、物語に入り込みすぎたと言えます。

 

物語の中核に「アンドロイドの人権問題」があります。

感情のある機械を人間として扱うか? という問題です。

 

 

とも
とも

……いや、あるでしょ。

 

僕の中でもう議論の余地はないです。

 

人間って何か? と考えた時、その大きな要素の一つに「感情」があります。人間は感情の生き物と言っても良いです。

しかも、子供を守る愛もある。人間以上に人間です。

 

「いやこれはもう人間で議論の余地とかないでしょ」と、心から思った瞬間から、アンドロイドが物語を動かすために作られた可哀そうな人形にしか見えなくなりました

そして人間の邪悪さや愚かさを際立たせる、美しい人形であると。

認められるべき人権を認められず、ゲーム演出としてゲームの中で抗うように作られた存在。

 

大勢で「アンドロイドにも人権を!」みたいにデモする27話で、人間の愚かさ、放漫さ、邪悪さが心に苦しく、かつ既に議論の余地とかないものを物語のために動かされている「ツクリモノ」と強く感じてしまい熱が冷めて止めてしまいました。

 

アンドロイドは既に人間だよ。

選択する意思があり、嫉妬し、新しい芸術を作れて、死の恐怖があり、愛を持つ。

 

議論の余地とかもう無いでしょ。

それなのに人間たちにとって便利な道具(アンドロイド)であるがゆえ、その気持ちに蓋をして、「アンドロイドである」という扱いをする。

そんな邪悪さにあまりにも苦しくなり、やめました。

 

まぁもしかしたら続けてプレイしたら「アンドロイドは人間だ! ヤッター! みんなでなかよくしよう!」ってなるかもしれませんが、そうなっても人間が掌返しをして過去のアンドロイドにした罪を償ってないわけで個人的には許せません。

いや、もし仮にさらに続けて人類土下座アンドロイドの下僕化エンドみたいなのがあったとしたら「プレイしてなくて勿体ないことしたなぁ」と思いますが多分ないやろ(適当)

 

ハッピーになりたいんだよなぁ

もっと僕はゲームに、なんにも考えずハッピーになれるものを求めてるんですよ。

だって生きるのが苦しいから。ゲームぐらいハッピーであってほしい。ゲームをプレイしている瞬間くらいはハッピーでありたい。

 

で、最近のゲームってそういう変にストーリーを凝ったせいで苦しくなったりゲームから気が逸れてしまう作品が多い!

ちょっと前に流行ったCelesteもゲームとしては高難度2Dジャンプアクションで好みだと思うんですが、あの変なストーリーがあったせいで全然好きになれませんでした。ほかにも心当たりのある作品がいくつもあります。

 

もっとさぁ、ロックマンとかマリオとかみたいに

 

とも
とも

苦労して悪い奴倒して終わり! やったー!

 

って気持ちよくゲームを終わりたいんですよね。

 

そこに人間臭さが絡んでくると、人間の邪悪さに嫌気がさしてきます。

 

多分楽しみ方としては「ゲームの表現はここまで進化したんだ! すごーい!」って楽しみ方が一番健全かとは思いますが、そう楽しめなかったんですよねぇ。邪悪さアンテナが強いので。

 

まぁそんな僕も、人間に対してもつ憎しみをアンドロイドには向けられないので、所詮機械と見下しているのかもしれませんね。

 

邪悪な人類が嫌いだけど、自分もまたそんな邪悪な人類の一員であると気づき、今日も憂鬱です。

 

あ、ちなみに物語としては考えさせられるものかとは思いますが、ゲームとしては非常に微妙な出来です。

 

そんな僕が思う、他の面白いゲームを知りたい方は「人生のベストゲームおすすめ98本」の記事を眺めてみて下さいな。

 

 

 

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